最初は奇跡の人の存在を恥ずかしながら知らなかった。少しずつそれがヘレン・ケラーのことだとわかってきた時、この小説はその日本版なのだなと理解した。以下裏表紙の本書の紹介である。
アメリカ留学帰りの去馬安の元に、伊藤博文から手紙が届いた。「盲目で耳が聞こえず、口も効けない少女」が青森県弘前の名家にいるという。明治二十年、教育係として招かれた安はその少女、介良れんに出会った。使用人たちに「けものの子」のように扱われ、暗い蔵に閉じ込められていたが、レンは強烈な光を放っていた。彼女に眠っている才能を開花させるため、二人の長い闘いが始まった。
原田マハさんの小説の中で短編集以外では読了したのは楽園のカンヴァス以来である。どちらも装丁が素晴らしくついつい書店で手に取りたくなる装丁だ。この小説には不自由な人が多く出てくる。それは単に障がいを持った登場人物だけでなく時代や家によって不自由を強いられている人々である。障がいと闘うということはその目に見えない圧力と闘うということでもある。登場人物の去馬安は強い意志と行動力でれんを障がいや圧力から連れ出そうとする。その闘う様やれんの知性と生命力を信じる姿勢が胸を打つのだが、本書にはもう一つの感動がしっかり準備されている。友情である。
れんはキワという盲目の門付け芸人と出会い幼い友情を育んでいく。それが時を経てもしっかりと大切なものとして残っていくほどに。わたしは現在A型事業所に通っている。そこには発達障害の人も多く、その中には普段ほとんど話さない人もいる。しかし、就労体験で同じ学校の知り合いが来たときは辿々しい声で「久しぶりだね」と「元気だった」と同じ障がいを持った人に話しかけていた。わたしはその時、その背景に懐かしくもいい時代がその子にあったのだと胸が熱くなった。もちろん今が良くないというわけではないと思うが、何か障がいを持った人が自分と同じという感覚を持って生きていたり、また逆に自分は社会の中でマイノリティなのだと理解しながら生きているのではないか、そんなことを連想させた。身体的な配慮はもちろんだが、そういった背景を汲み取るといった想像力や心理的配慮もあってはいいのではないかと考えさせられる。
また目頭が熱くなるのは去馬安のれんを信じる気持ちだ。別にそれは障がい者が自分の弱さを克服していくという障がい者にとってのお決まりのストーリーではなく、障がい者の物語として語られてはいるけれど生きている者にとっては自分の可能性を信じ未来を変えていくという誰にでも当てはまるストーリーなのが素晴らしい。最後に印象に残ったのはヘレン・ケラーが奇跡の人でないという考え方だ。これは別の本で読んだことなのだが、奇跡の人とは先生のサリヴァンであって、周りの善意の人のことを指すという考え方である。大切なことは目には見えないとあるがまさにそれは知られることのない善意や良い行いが世界を支えている、そう思わずにはいられない。